瓔珞の音

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<<   作成日時 : 2010/07/08 22:24   >>

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小学校のころ、社会の時間に岡上景能公について習いました。
岡登用水を開削したこの人物。
多分私の地元以外では、そんなに有名でないのではないかと思います。
この舞台を観た後、成田市に住むお友達とちょっとメールでやりとりしました。
お友達は、小学校のころ道徳の時間に木内惣五郎について学んだそうです。
そういう地元に根ざした授業って、今もあるのかな?


コクーン歌舞伎 「佐倉義民傳」

2010.6.26 ソワレ シアターコクーン 1階S列一桁台

演出・美術:串田和美
脚本:鈴木哲也
出演:中村勘三郎、中村橋之助、中村七之助、笹野高史、片岡亀蔵、坂東彌十郎、中村扇雀 ほか


物語は、一人の男の狂乱から始まりました。
佐倉十五万石堀田家領主、堀田上野助正信(中村扇雀)。
春の盛りになっても一輪の花も咲かせない庭の桜に、
無残な最期を遂げた男の怨念をみた彼は、狂乱の中で妻を切り殺します。
その途端に、満開の花を咲かせた桜の大木―――
そして舞台に雪崩込むように現れた農民たちが、歌い踊り始めます。
上野之介の乱心の原因となった男について。
御霊として祀られた男。
その男が生きた時代のこと。
そして、その時代の中でその男がとった行動。
時を遡るように歌われるラップ。
人々の奥に見え隠れする、張りつけにされた死装束の大きな人形。
農民たちの歌声が、熱狂の色合いを帯びて頂点まで駆け上がったその瞬間。
まるで人々から生み出されるように現れた男―――木内宗吾(中村勘三郎)!

コクーン歌舞伎は二度目ですが、もうこの始まりで一気に舞台に引き込まれました。
ラップのリズムと歌詞の中で加速するように上がっていく舞台の熱。
それは圧倒的なボルテージで客席中を巻き込み、
そして、その熱狂を突如断ち切るように現れた勘三郎さんのちょっと尋常でない存在感に、
考える間もなく体が反射的に大きく拍手をしてしまいました。

私は本来の「佐倉義民傳」を観たことがありません。
ですから、勘三郎さんが演じられた宗吾が、私にとってのスタンダードな宗吾になりました。

名主の一人として、農民たちと共に働き、彼らを諭し、彼らを慈しんだ宗吾。
圧制に対し、殿は現状を知らないからだと、我らの窮状を知ればきっとお慈悲を下さると信じ続けた宗吾。
愛する妻と子どもたちに、蕩けるような笑顔を見せた宗吾。
上野介の"約束"に、心底ほっとしたように肩の力を抜いた宗吾。
上野介の裏切りに、苦渋の表情で拝した杯を叩き割った宗吾。
何かに追い立てられるように怯えた表情で、雪の中をひた走る宗吾。
将軍の前で取り押さえられながらも、静かな表情だった宗吾。
そして、殺される我が子を前に、初めて絶望と憎しみを露にした宗吾―――

本当に最後の瞬間まで、宗吾は決して憎しみを見せはしませんでした。
苦しい生活の中でも、殺気立つ農民の前でも、
決定的な裏切りを確信してさえ、宗吾の表情に悲しみややるせなさはあっても、
人を憎み呪う表情はなかった。
常に前向きで、人を信じ、佐倉を愛し、生きることを礼賛した宗吾。
時に煮え切らなささえ感じさせるその穏やかさは、
けれど私には、宗吾の必死の防衛のように思えたのです。

人は、そのままでは悪へと向かう、だからこそ師への礼や学びが必要だというのは、性悪説だったでしょうか。
私には、宗吾は決して聖人君子には見えなかった。
農民たちと同じだけの不信や疑心、憎しみを抱えつつ、
自分の中にあるそんなどす黒い想いをきちんと認識した上で、
その想いを封じ込め、変容させ、ただひたすらに"善き人"であろうとした。
他者を信じ続けようと努力した。
そういうとてもストイックな強さのある人物。
そんな風に感じさせるだけの激しさを、私は勘三郎さんから受け取ったように思うのです。

もちろんそれは私の個人的な感覚で、宗吾は根っから仏様のような人だったのかもしれない。
もちろん、穏やかで優しい宗吾も真実であったと思います。
でも、そういう闇を持った人だからこそ、あそこまで"できた"人でいられた。
そして、その闇い熱を常に胸の奥に燻らせていたからこそ、
絶望の果てにその熱が呪詛として放たれ、上野介を狂乱へと導いた―――
そう考えるのは、ちょっと穿ちすぎでしょうか・・・?



そんな宗吾をひたすら陥れようとする(え)橋之助さんの駿河弥五衛門。
なんとも男前で、なんとも胡散臭い人物でした。
正直、私はこの役柄をきちんと理解はできていないと思います。
宗吾の中に硬く仕舞いこまれた闇を引きずり出すように、
これでもか、とばかりに宗吾を追い詰める弥五衛門。
彼が何を見たくて、何を知りたくてこんなことをしたのか、私にはわかりませんでした。
もしかしたら、宗吾の中の闇そのものが形を作ったのかもしれない。
ジキル博士を追い詰めるハイド氏のように、
もしかしたら、彼は宗吾と表裏のような関係だったのかもしれません。
彼は、宗吾が呪詛を吐きながら死んでいって満足だったのかな・・・?

弥五衛門の行動が一番わからなかったのは、七之助さん演じるおぶんを切り殺すところ。
世間知らずで純粋だったおぶんが、母との再会で絶望し、汚れていく様を見たくなかったのでしょうか。
彼と知り合ったことで堕ちていくおぶんを救う方法が、それしかなかったのでしょうか・・・?
七之助さんおおぶんはとてもすらりとして美しかったですv
が、もしかするとおぶんって、数えで14〜5歳くらいのほんとに少女の役だったのかも、
と見終わってから思いました。
とても大人な女の人のように見えて、弥五衛門にも恋情があったのかな、と最初は思ったのですが、
江戸に出てきてからの様子をみると、ほんとに子どもだなあ、という感じだったのです。
そう思うと、弥五衛門の行動は受け入れはできないけど、納得かもしれないなあ・・・
で、実は一瞬弥五衛門っておぶんのお父さん?って思ったりも(笑)。

七之助さんは、将軍家綱も演じてらっしゃいました。
あの、直訴のシーンの静謐な美しさは、とても印象的でした。
舞台の奥と手前、将軍と宗吾の距離はとても遠かったけれど、
通じ合う何かが確かにあったように思います。
実はあのシーンが私の涙のツボでした。

そういえばこの舞台、音楽は伝統的な鳴り物と現代的なギターなどが交じり合っていました。
雪の風景の中にキュイーンと鳴り響くエレキギターの音が、
なんというか凄く不安や焦燥感を掻き立てる感じで、
お芝居に合っているなあ、と思いました。


おぶんの伯父、渡し守の甚兵衛役は笹野さん。
出番そのものはそんなに多くはないのですが、
その寂しさと諦念と足掻きを混ぜ合わせたような複雑な雰囲気を感じました。
追われる宗吾を向こう岸に渡すために、船に掛けられた鎖を断ち切るところは、
決して派手なシーンではないのに、なんだか凄く心に迫りました。
でもって、最後のシーンの座長の飄々とした雰囲気も素敵v
セコムのCMのおじいちゃん、とっても好きなんですよねーv


宗吾の女房おさんと、上野介を演じたのは中村扇雀さん。
どちらも別の意味で深く宗吾に関わった役柄ですね。
最後まで宗吾を愛し、尊敬し、信じ続けたおさんと、
宗吾を信じ、その言葉に感心し、杯を交わし、けれど最後の最後で彼を切り捨てた上野介。
どちらも守りたいものがあった、というのは同じなのかも。
上野介の理想と現実のギャップが、農民たちの苦しみの元だったのかなあ・・・
もちろん、そんな簡単な者じゃないのでしょうけれど。
でも、"器"って残酷だなあ、と思いました。

そんなお殿様の下で、まさに究極の中間管理職的だった坂東彌十郎さんの家老・池浦主計。
物語の中ではばりばりの悪役なのですが、そうせざるを得なかった苦渋を感じました。
主計にももちろん守るべきものがあった。
そのために、切り捨てなければならないものがあった。
もちろん、それで切り捨てられちゃった側にしたらとんでもないんですが・・・
でも、そういう主計にとって、真っ直ぐに理想を突きつけてくる宗吾は、
とても苦い存在だったんだろうなあ、と思います。
宗吾一家の処刑のあの残忍さは、見せしめというだけでなく、
そういう個人的な感情もあったのかも?


宗吾の子どもたちを演じた子役くん!
Wキャストのどちらだったのかはわかりませんでしたが、ほんとにお上手でした。
彦七の健気さは、ほんとに涙を誘いますね・・・
処刑のシーンでは、鬼気迫る宗吾の様子に涙も引っ込んでしまいましたが(え)。
でも、あんな風に最後の最後に尊敬する父の変貌を見せられた彦七はどんな気持ちだったのかなあ。


舞台は、最後もラップで終わりました。
地面を踏みしめる音が身体に響き渡るような、大勢での最後の歌。
その歌詞は現代のいろんなことも盛り込んであって、
「これでいいのか?!」というメッセージをこれでもか!というくらい直接的に歌っていました。
でも、私的には、その歌詞そのものというよりも、
役者さんたちが踏み鳴らす音や、歌声の熱い響きに揺さぶられたような感じです。
たぶん、誰もが多かれ少なかれ持っている、
「何かが変だ」「何かがおかしい」「このままでいいのか」「何をすればいいのか」・・・
そういう気持ちをこのお芝居は揺さぶった。
その揺さぶられた気持ちが互いに共鳴しあって、
あれだけの熱狂的な空気が劇場中を満たしたのだと思うのです。


現代の政治とのつながりとか、社会的な問題とか、
たぶん深く考えれば、この舞台はいろんなことに繋がると思います。
ただ、それを言葉にしようとすると、私の言葉ではなんだかとても薄っぺらくなってしまいそうで。
なので、"人"に焦点を当てての観劇記録になりました(というか、そういうつもり/汗)。
でも。
凄かった、と、ただあの熱に浮かされているだけではいけないと、そう思うのも確かなのです。

"諦めないこと"
"このままでいいのかと、常に自身に問いかけること"
そして、"在りたいと思う自分で在るための努力"

この舞台から、宗吾さまから受け取ったこと。
どう生かせるかは、私しだい、なんですよね。

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タイトル (本文) ブログ名/日時
10/06/19 「佐倉義民傳」、わが最高のコクーン歌舞伎に!
{/m_0030/} 佐倉散策後、京成電車で日暮里乗換えJRで渋谷へ。けっこう開幕ぎりぎりに着席。 佐倉散策(2)宗吾霊堂の「宗吾御一代記館」でもう感涙(T-T) 2階席の後方だがS席という設定にちょっと異議アリではあったが、3人並んで休日でとれただけでも有難い。 {/face_yoka/} Yahoo!百科事典の「佐倉義民伝」の項はこちら プログラムの保坂智氏の解説に寄ると、惣五郎の物語は早くから一揆文学としてあらわれ、佐倉藩の苛政、門訴、老中駕籠訴、将軍直訴、処刑と怨霊による堀田家への祟りと... ...続きを見る
ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記
2010/07/08 23:03

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内 容 ニックネーム/日時

若かりし頃に唐十郎の赤テントを観て「ああいうのを自分もやりたい」と先代に熱く語ってたしなめられた勘三郎丈が、同じくアングラにルーツを持つ串田和美氏と組んで、今ようやくこの境地までたどりついたんじゃないかと思えます。
「菅原伝授〜」同様に御霊信仰が下敷きにあるなと思ってネット検索したら当たってました。怨みを持って死んだ人物が荒ぶる神になって敵に祟るというのは、日本の御霊信仰そのものなんですよね。この祟りの場面があることが江戸時代の人気のもとだったのに、明治以降に歌舞伎が高尚化していって滅多に上演されないようです。
宗吾が聖人君子から荒ぶる神になっていく過程に、より人間くさい面を盛り込んだこと、オリジナルの創作キャラクター弥五右衛門を対置させたことでひねりが効いてテンポもアップさせていたのも面白かったです。
弥五右衛門という架空のキャラクターをあえてつくって宗吾に対置させ、宗吾の行く手を阻んだり、宗吾自身が考えてもいなかった究極の選択に考える余裕もなく追い込み、民を救うために命をも犠牲にする道から逃げるかどうかを試すという、ダークサイトの狂言回しを配したために宗吾の人間くささも強調されたり、怒りや恨みの度合いが増して荒ぶる神になった後の宗吾の力をパワーアップさせていたりするのかも。おぶんを殺してしまうところは気に入りませんでしたけれど、どうしても魂を蝶にして雪の中を舞わせるというビジュアルをつくりたかったせいかもしれないと思ってます。串田さん、美術にけっこうこだわる方のようですからね。
「まつもと大歌舞伎」では客席の反応が渋谷と違っていたようです。大都会の地に足をつけないで暮らしている人間と自然の厳しい中で土から生まれる命に近い人間との違いかもしれません。まつもとで再演があったら行ってしまいそうな気がします。
ぴかちゅう
2010/07/08 23:24
ぴかちゅうさん、こんばんは!
ただただ舞台に圧倒されてしまった私には、
ぴかちゅうさんの多角的な目線、本当に勉強になります。
御霊信仰については、以前お借りした忠臣蔵の本にありましたね。
今回の舞台では、祟りのシーンはあまり明確ではありませんでしたが、
もとの舞台はもっとしっかりそういうシーンがあるのでしょうか?
松本もすごかったようですね。
個人的には、地元佐倉での公演もいいんじゃないかと思いますが、
地元なだけになかなか難しいのでしょうか。
恭穂
2010/07/10 19:04
恭穂さま
宗吾が心の奥に闇を秘めた人間だったという
恭穂さんの見解にハッとする思いでした。
私は宗吾の崇高なまでの“出来た”人間ぶりが
何となくなじめなくて、あの「念仏など唱えるな。
成仏するな。怨め」という叫びが人間的で
かえってほっとするような感覚だったのですが、
そうか、その心に秘めた黒い塊の吐露だとすると
かなり得心できます。

それをふまえた上で、ぜひもう一度観たいと
思いますので、再演希望です(笑)。
スキップ
2010/07/12 01:28
スキップさん、こんばんは!
実は、最初の滝に打たれているシーンを見たときに、
この人は、こんなにまでして何を押し込めたいんだろう、
何を洗い流したいんだろう・・・?と思ったんですね。
こんな荒行をしなくてはならないほどの、
激しい何かを持っているのではないか、というのが、
私の宗吾像の始まりでした。
でも、決して"仏様のような宗吾"が嘘だとは思わないんです。
ただ、自分の中の汚い部分をきちんと受け止めて、
その上で"理想の自分"になろうとする宗吾の強さが、
私はとても好きでした。
そんな私の好きな宗吾さま像に、
少しでも共感していただけたなら嬉しいですv
恭穂
2010/07/13 22:46

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