瓔珞の音

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zoom RSS 箱庭の外

<<   作成日時 : 2014/05/07 22:44   >>

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ずいぶん昔、脳死移植の最初の法律ができたころ、
臓器移植について書かれた本を手当たり次第に読みました。

脳死移植を含めた臓器移植を肯定するもの。
脳死移植には否定的だけど、臓器移植は肯定するもの
臓器移植の全てを否定するもの。

そこにはたくさんの意見があって、100%同じ、という意見はなかったように思います。
でも、その根本にあるものは、一つだったように思う。

命の、定義。

人の形をしていること―――じゃあ、胎児は?
息をしていること―――じゃあ、呼吸筋だけが侵されている人は?
心臓が動いていること―――じゃあ、人工心肺を付けている人は?
思考できること―――じゃあ、どこまでを思考というの?
感情があること―――じゃあ、"感情の定義"は?

科学的な定義。
倫理的な定義。
歴史的な定義。
文化的な定義。

いろいろな定義があって、
その定義を超える感情的な感覚を誰もがきっと持っていて、
その感覚すら、"誰の"命なのかで違っていて・・・
だから、誰もが納得する"唯一の定義"は、作ることはできないのだろう―――
そんな思考停止的な、絶望的なあるいは希望に溢れた答えに、当時の私は行きついて呆然としました。

それから、ことあるごとにこのことについては考えているけれど、
そして、私なりの"答え"や"定義"らしきものにたどり着けているとは思うけど、
でも、それはやっぱり私だけのもので―――


この舞台を観たとき、私は箱庭を創ろうとして、綺麗で正しい世界を創ろうとして、
けれど決して箱庭の"中"に生きることはできなかった彼女が自分と重なった。
重なって、だからこそ自分自身に泣くことを許せなかった。
だって、外から世界を操ろうとした彼女こそが、
こどもたちを異端だと誰よりも知っていたんだから。



「わたしを離さないで」

2014.5.6 マチネ さいたま芸術劇場 大ホール 1階C列一桁台

原作:カズオ・イシグロ
演出:蜷川幸雄
脚本:倉持裕
出演:多部未華子、三浦涼介、木村文乃、山本道子、床嶋佳子、銀粉蝶、内田健司、茂手木桜子、
    長内映里香、浅野望、堀杏子、半田杏、呉美和、佐藤蛍、白石花子、安川まり、米重晃希、
    浦野真介、竪山隼太、堀源起、中西晶、坂部一海、白川大、砂原健佑、阿部輝、銀ゲンタ、
    鈴木真之介、高橋英希



物語の舞台は、窓を開けると波音の聞こえる寄宿舎「ヘールシャム」。
そこで生活する子どもたちは、保護官と呼ばれる教師たちの指導のもと、
生まれながらに与えられた「使命」を持つ「特別なこども」として、様々な教育を受けていました。
八尋(多部未華子)も、同級生の鈴(木村文乃)やもとむ(三浦涼介)たちとともにそこで育ちました。
学び、遊び、喧嘩をしては仲直りし、恋を知り、嫉妬を知り、
全てを話せた相手にいつしか秘密を持ち、どうにもならない感情を弄び、
そうやって世界と折り合いをつけることを覚えて、いつしか大人になっていく彼女たち―――
けれど、彼女たちの中には、一つだけどうやっても変えられないものがありました。
それは、「使命」―――「提供者」としての、使命。
ヘールシャムを出て、「農園」で暮らしながら、外の世界を覗いて、
「介護人」になることを学び、「介護人」として働きながら、「提供者」になる時を待つ、彼女たち。
そんな彼女たちにもたらされた、一つの噂。
本当に愛し合う恋人同士だけが、「提供者」になるまでに三年の猶予をもらえる―――
不確かなその噂に縋り、互いを抱きしめ、互いを傷つけ、そして離れ離れになった三人。
「介護人」と「提供者」として再開した彼女たち。
「使命」を終えた鈴を見送った残された二人は、
その猶予をジャッジするとされる存在の元へと向かいます。
けれど、そこで二人を待っていたのは―――

というような物語。
「使命」「農園」「介護人」「提供者」。
これらの言葉は、劇中もなんの説明もなく、ぽんっと私の前に投げ出されてきました。
ごく普通の、常識的な言葉として、子どもたちの間で交わされる会話に混じる言葉たちは、
彼らが暮らす「ヘールシャム」や「農園」と同じ、あり得ない現実感を伴っていました。

白いレースのカーテンが、見えない海から吹く風に揺れる、たくさんの窓のある灰色の「ヘールシャム」。
枯れた草原にたくさんの椅子が置かれたような「農園」
短い夏の光のような、輝く生命力と幼い残酷さに溢れた「ヘールシャム」。
後はもう凍える冬に向かうしかない長い秋の夜のような「農園」。

そこは、プログラムで蜷川さんが書かれていたとおり、「箱庭」だった。
外の誰かの手で作られ、外の誰かの手で整えられ、外の誰かの手がいつでも壊すことのできる、「箱庭」。
その「箱庭」の中で、疑問や不安や焦燥や絶望や希望に翻弄されながら、
けれど決して自ら「箱庭」を出ることを、「箱庭」を壊すことをしようとはしない、子どもたち―――
彼らが接する「外」の世界も、荒い波が砕ける堤防の上であったり、
古い船が転がる、海から遠く離れた湿地であったり・・・
もちろん、それ以外にも彼らが生きた場所や時間はあるのだけれど、
でも、リアルな造形として描かれるのは、そんな行き止まりの場所ばかりでした。
そんな、物理的にも心理的にも閉鎖された空間を生きる彼らは、
けれど、私たちと変わらない体温と、変わらない感情を持つ少女であり、少年であり、女であり、男だった。


一番複雑そうに見えて、一番わかりやすかったのが、木村文乃さん演じる鈴。
活発で、歯に衣着せぬはきはきとした物言いで、
相手の非を言い連ねることで自分を正当化して、そして脆い自分を守ろうとする臆病な少女。
余裕のある言葉を口にしながらも、その表情はいつも追い詰められていた。
でも、追い詰めているのは彼女自身で―――なんだか見ていてほんとに痛々しかったなあ。
彼女は、"自分"を信じることができなかったのかな、と思う。
だから、周りの評価ですべてを図り、時に自分を貶めることで自分を憐れみ、
八尋に甘え、彼女を意図的に傷つけることで自分の場所を得ようとし、
もとむに縋り、彼を縛り付けることで逃れようのない「使命」への恐れから目を逸らそうとした。
でも、それは結果的に彼女が自分を見失い、孤独に落ちていくことにしか繋がらなかった。
そんな風に感じました。
この物語の中で、たぶん一番弱くて、一番素直な存在でもあったんだろうなあ。
すっと伸びた細い首筋と、感情のままに色合いを変えていく声がとても印象的でした。


一方で、多部未華子ちゃん演じる八尋は、全てを受け入れて飲み込んで拒絶しない、そんな少女。
ぶつけられる感情を、理不尽な要求を、身勝手な甘えを、彼女は決して跳ね返さない。
あどけない表情とは裏腹な、大人びた言動と、コントロールされた感情。
でも、その眉間には、気づくといつも深いしわが刻まれていて、なんだかそれがとても切なかった。
彼女の中にだって、鈴と同じような恐れや焦燥があったはず。
たぶん、八尋はそれをむしろ真正面から見ることで、全てを飲み込んだ。
でも、それはほんとに"強さ"だったのかな?
私は、そうは思わない。
彼女は向き合うのではなく見つめることを選んだ。
抵抗するのでも、恐れるのでもなく、ただ当たり前のこととして「使命」を受け入れた。
それは、保護官たちの教育の結果だったのだろうけれど、
でも、違う面から見れば、疑いもなく受け入れるということは、
思考することを放棄することなんじゃないかと思う。
表面的には八尋はそういう存在に見えました。
だから、その在り方は、切ないとともになんだかちょっと恐ろしくもあった。
生まれ続ける思考を、溢れる感情を、受け入れて飲み込んでなかったことにしてしまう―――

床嶋さん演じるマダムが、ヘールシャムの女子寮で、
枕を赤ちゃんのように抱きながら歌を口ずさむ八尋を見て慄き涙するシーンがありました。
終盤にマダムは、その時のことを、
「あなたは変わっていく世界の中で、変わらないものを抱きしめていた」というように語るのですが、
聴いた瞬間は、逆なんじゃないかな、とちょっと思ったんですね。
変わらない世界(クローンに対する世論)の中で、変わっていくもの(未来を持つクローン)を抱きしめてる、
の方がしっくりくるんじゃないかなあ、と。
でも、後から八尋という存在を考えたときに、
確かに彼女は"変わらない"存在なのかもしれない、と思いました。
感情を持っても、思考を持っても、決してそれが未来には繋がらない、
ある意味底なしにクローン的な存在なのかなって。
あと、凄く直接的なのだけど、多分「子どもたち」には生殖能力がない、という設定だったんじゃないかな、と思う。
それを八尋は知らなくて、マダムは知っていた。
そしてまた、「子どもたち」はある意味「母親から引き離された」存在でもあったと思う。
子どもたちがどんな風に生み出されたのかは物語の中では明言されないけれど、彼らは「親」も「血のつながりのある家族」も知らないはずで…
そういう存在である八尋が自然にとったあの行動は、マダムにとっては自分たちの罪を突きつけるものでもあり、
子どもたちの中にある、マダムたちには理解できない何かの明確な提示でもあったのかもしれないな。
うーん、やっぱり上手く言えないなあ...

そんな八尋が、初めて与えられた知識や状況や使命に逆らうためにもとむと向かったマダムの家で、
彼女は「ヘールシャム」の本当の意味を冬子先生(銀粉蝶)から聞きます。

クローンを用いた移植技術の進歩。
移植する臓器として生み出され生かされているクローン。
その劣悪な環境を改善するために冬子先生たちが作ったヘールシャム。
上等な教育を与え、子どもたち―――クローンが作った様々な"作品"を世間に明らかにすることで、
クローンたちが感情を持つ、"自分たちと同じ存在"であることを証明しようとした保護官たち。
けれど、子どもたちがそういう存在であることをアピールする同じ口で、
保護官たちは、子どもたちの「使命」という前提は、当たり前の前提であるとした。

逃れられない、「使命」。
どれだけ"人間的"な感情を持ち、知識を持ち、立派に成長したとしても、
彼らが「提供者」という名の"材料"であることには変わりない。
保護官たちが創り上げた子どもたちの豊かな感情や情緒や人間性は、
決して子どもたちの運命を変えることはできない。
だから八尋も、猶予を得ようとはしても、「使命」から逃れようとはしなかった。
だって、それは変えられないことなのだから。
それは当たり前のことなのだから。
感情を持ち、思考をし、恐れ、夢見ることすべてが、その上に成り立っているんだから。

―――じゃあ、どうして子どもたちに感情を、思考を与えたの?

ヘールシャムができる前の「劣悪な環境」がどのようなものだったのかは、具体的には語られません。
その「非人道的」な環境は、けれど、子どもたちが"人"であるからこそ「非人道的」なのであって、
子どもたちが"人"ではなく、"材料"であるならば、それは「非人道的」というのだろうか。
でも、じゃあ、恐れる気持ちを、夢見ることを、愛することを知った子どもたちから、
きみはそういう存在だからと、有無を言わさずにそれらを否定し奪い取ることは、
「非人道的」ではないのだろうか?
それは、残酷なことではないのだろうか―――?
最初から与えないこと。
与えておいて奪うこと。
そのどちらが残酷なのか

私には、与えてから奪うことは「劣悪な環境」に劣らないくらい残酷なことだと思う。
でも同時に、誰かのクローンとして生まれた彼らが"人"であるならば、
限られた時間でも"人"として生きることを認めたいとも思った。
そして、そう思った自分が、まさに冬子先生の思考と重なっていることに気づいて、呆然としました。

猶予がないことを知って、ヘールシャムが、ヘールシャムで過ごした自分たちの時間の虚しさを知って、
子どものように顔を歪めて泣くもとむを見て、でも、私には泣く資格はないと思った。
だって、私は冬子先生と同じ存在だから。
与えて、奪う存在だから。

このシーン、席的に八尋の表情は全然見えなかったのですね。
だから、この時の八尋が、かつてマダムが見た底なしにクローン的な存在であったのか、
感情も思考も全てを本当に自分のものにできた存在になっていたのかはわかりません。
でも、たから岬の堤防でのラストシーンで、
たぶん「使命」を終えたもとむの今はない笑顔を見つめ、その背中を見送った八尋は、
やっぱり変わらない存在として、この後も生き続けていくのかなあ、と思いました。
あ、そうか、それで冒頭のシーンに繋がるんだ!


かなり逸れたけど、役者さんのことを。

もとむ役の三浦くん、実はこの舞台で一番の嬉しい驚きだったり。
前に見た舞台では、役者さんというよりも歌い手さん、というイメージが強かったのですが、
今回は役者さんだなあ、と思った。それも素敵な役者さんv
なんというか、物語の中でのもとむの変化がものすごく鮮やかだったのね。
1幕の、アンバランスで不安定な少年が、
2幕では、自分で考え、自分で選び、そして努力することを知った青年になり、
3幕では、穏やかに受容することを知った大人の男になっていた。
それは、単に時の流れではなくて、
八尋や、鈴や、晴海先生や「農園」の先輩たちと過ごすことで、
明確なきっかけで、彼自身が変わろうとし、そしてその結果として変わったのだということが
すんなりと納得できるような変化でした。
髪型は衣装が変わっただけではなくて、ほんとに顔つきも声も口調も変わってましたもの!
だからこそ、冬子先生と会った後の、あの14歳に戻ったかのような慟哭はきつかったなあ・・・
彼はあの瞬間に、自分自身も、それまで生きてきた時間も否定されたんだよね(涙)。
ラストシーン、堤防の上でのあの全開の笑顔は、光のような生命力にあふれていたように思います。
でも、その輝きは、もう失われたものなんだよね・・・

冬子先生役の銀粉蝶さんは、3幕終盤の崩壊っぷりが素晴らしかったです!
たぶん彼女自身が移植を必要とする病に侵されてるんだろうなあ。
で、向かいくる死と、それを回避する方法の両方が目の前に置かれたときに、
彼女は自分が育てた"子どもたち"を最後まで肯定するのではなく、
彼らを否定して死を回避することを選んだんだろうな、と想像してみたり。
あの、はっきりとした強い口跡から、絶望と自嘲がしっかりと感じられたところがさすがだなあ・・・!

晴海先生役の山本さんは、たぶん初見。
出番は1幕のみなのですが、全てが分かった後で晴海先生の言葉や行動を思い返してみると、
彼女の葛藤や、愛情や、やっぱり絶望が感じられて・・・(涙)
名前しか出てこない保護官もいたけど、
保護官たちは、それぞれに使命感や情を持って子どもたちに接していたんだろうな、と思います。
ちなみに、晴海先生が子どもたちを呼び出す第二視聴覚室(だったかな?)、
いろんなものが雑然と積んであるのですが、その雰囲気がすごい好きでした。
まあ、あの上を動きながら演技する役者さんは大変だったでしょうけどね(笑)。

マダム役の床嶋さん。
台詞のあまり多くない、とても静かな役柄なのですが、
唯一明確に箱庭の外を感じさせる存在でした。
"材料"・・・"人形"でもいいかな、そういう存在であるクローンが、
自分たちと同じように感情を持ち、未来を夢見る様子を見ることは、
彼女の中に拭いきれない嫌悪感を生み出したけれど、
その嫌悪感は、罪悪感と同義だったのかもしれないな、と思います。
それでも、見たくないものは見ない、知りたくないことは知ろうとしない"外"の人たちの中で、
間接的でも子どもたちに接しようとした彼女には、やっぱりそれなりの理由があったんだろうと思う。


ラストシーン、冒頭と同じようにヘールシャムの子どもたちが舞台の奥から遊びながら現れてきます。
そんな彼らを遮るように、強い風に煽られ舞い上がるたくさんの破れ紙―――
創られ、整えられ、消費され、最後にはごみとして打ち捨てられる、様々な色合いの紙。
それは、子どもたちのことなのかな・・・?
かさかさと儚い音を立てて吹き溜まった紙と、子どもたちの笑顔の対比が、
なんとも容赦ないなあ、と思いました。


うーん、いろいろいろいろ考えたのだけど、なんだかうまく表現できないなあ。
とりあえず、原作を購入してみたので、それを読んでからまた考えてみたいと思います。
というか、そうやって考えた後で、もう1回舞台を観てみたかったな。
あと、私は今回かなり直截的に物語を受け止めたけれど、
クローンとか臓器移植とかはあまり考えずに、普遍的な物語としても捉えられるのかな、と思います。
そんな風なスタンスでも観てみたかったなあ・・・なんだか違ったものが受取れたかも!

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
恭穂さま
重いテーマも含めて、とても心に残る舞台でした。
私は全く予備知識なく観ましたので、一つまたひとつと
明らかになっていく子どもたちの厳しい真実に戦慄を
覚えたり切なさで胸がいっぱいになったり。

恭穂さんがご自身を冬子先生と同じ存在と感じられた
ようには私は踏み込むことはできなかったと思いますが、
確かに、私も「箱庭の外」の人間であることは動かし
難い事実で・・・。

八尋については、多分「外の」人間が教育した中の
優等生だったのだと思います。
感情を表に出す鈴、最後に慟哭するもとむと比して
いつも冷静で感情の起伏が少ないように見える八尋が
あの笑顔の下に押し込んだものを思うと胸がふさがれる
思いでした。
・・・って、何だかうまい言葉がみつかりません。
やはり恭穂さんと直接語り合いたいです(笑)。
スキップ
2014/06/12 12:31
スキップさん、こんばんは。

実は私もほとんど前情報なく観たので、
とても滑らかに自然に描き出される真実に、
私も戦慄を覚えました。
八尋は本当に優等生だったのでしょうね。
それが、良いことなのかどうかは別として、
彼女自身がどんなふうにいろんなことを消化していったのか、
原作を読むことでわかるのかなあ、と思いながら、
ページを繰っています。

私もスキップさんといろいろ語り合いたいなあ。
そんな舞台がたくさんで、お会いしたらエンドレスになりそうですね。
それもまた楽しみですがv
いつかぜひ!
恭穂
2014/06/12 19:33

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