宝の在りか

今年最後の観劇な週末を終えました。
今年も沢山の舞台と出逢って、あるいは再会して、
沢山笑って、沢山泣いて、沢山のものをもらいました。
毎年、数え切れないほどの舞台が創られて、私が出逢えるのはそのほんの一部。
私のまだまだ短い観劇歴の中で、私の中に宝物のように存在する舞台も幾つかあります。
その一つと、再会してきました。


「組曲虐殺」

2012.12.23 マチネ 銀河劇場 1階I列30番台

作:井上ひさし
演出:栗山民也
音楽・ピアノ演奏:小曽根真
出演:井上芳雄、高畑淳子、石原さとみ、神野三鈴、山本龍二、山崎一


この舞台の初演を観たのは、もう三年前
降り注ぐ月光に守られているかのようなこの舞台は、私にとってとても大切な宝物のような舞台でした。
だから、今回の再演を観にいくかどうか、実はかなり悩んでみたり。
思い出という形になってしまったものは、どうあっても美化されてしまいますよね。
私の中の深いところで大切にしまわれていた宝物が、
取り出してみたら色褪せていたら・・・それは、ちょっとどころでなく哀しいかなあ、と思ってしまったのです。
でも、この3年間、井上くんの舞台を観て、井上さんの戯曲に接して、
やっぱりこの舞台は観なくてはならない、と思ったのでした。

結果。

取り出した宝物は、やっぱりちょっとその肌触りが変わっていました。
でも、その変化は不快なものでも失望に繋がるものではなくて。
その静謐さはそのままに、より滑らかに、染み渡るような透明感が増しているように感じました。

その一番の理由は、やっぱり井上くんの多喜二だったように思います。
私の記憶にある初演の多喜二は、剥き出しの感情をそのまま差し出すような、
どこか痛々しさを伴う激しさがありました。
でも、今回の多喜二は、自分の中に溢れる感情を、もっとずっと優しい仕草で手渡してくれたように思います。

もちろん、独房での歌声には、抑えきれない感情があった。
ひたむきに生きる人たちを想い、蹲ったその体から搾り出されるように放たれた慟哭は、
月光の中、その光を抱きしめるように差し伸べられた手の優しさとやるせなさは、
初演と同じように私の心に飛び込んできました。
けれどそれ以上に、今回私の深いところに届いたのは、
杉並の借家で、浴衣姿で寛ぎながら大切な人達と朗らかに笑う彼の姿であり、
麻布のアパートの一室で、絶望と希望について歌う彼の姿であり、
そして、母へ手渡すみかんを手にした彼の泣きそうな笑顔と、振り返った瞬間の厳しい横顔でした。

小林多喜二という人物について、私は3年前と同様に何も知らなくて。
彼の思想や活動についても、知ったようなことを書くことはできないし、ここで書こうとも思わない。

でも、このお芝居に描かれた、大切な誰かを愛し、大切な何かを守り、
希望と絶望の間をただ真摯に歩んでいった、一人の青年としての多喜二の在り方は、
私にとって決して遠いものではなく、むしろ暖かな体温を感じさせる存在であるように思いました。
そして、そんな風に感じさせてくれる、井上くんの多喜二だったと思うのです。

その変化は、もしかしたら私の誤解で、初演から井上くんの多喜二はそうだったのかもしれないけれど、
でも、それでも、今回の"多喜二"の在り方を観ることができて、それがとても嬉しかったのでした。

一つ残念だったのは、上手の端っこよりの席だったので、
みんなが胸の映写機に映る光景を話しているときの多喜二の表情が見えなかったこと。
背中だけでも伝わってくるものはあったけれど、今回の、このシーンの彼の表情が観たかったな。


チマ姉さん役の高畑淳子さん。
初演と同じく安定した演技で、その愛情深さと肝っ玉の大きさを見せてくれました。
荷物を「よっ」と言って担ぐ姿が好きだったな。

タキちゃん役の石原さとみちゃん。
なんだかもの凄くストレートに彼女の感情が伝わってきたように思います。
多喜二に向かう想いも、ふじ子さんに向ける思いも、チマ姉さんに寄せる甘えも、家族に見せる強さも、
全部がとても鮮やか。
特に多喜二に向かう想いは、彼女自身が自制し抑制しようとしていることがわかる分、
それでも溢れてしまう感情に、ちょっと引きずられそうになりました。

ふじ子さん役、神野三鈴さん。
実はこの演目でしか観たことのない役者さんなのですが、ふとした表情がとても雄弁で心惹かれました。
パーラーで刑事に銃を向けるシーン、オチを知っていたにも関わらず、
息を詰めて見つめてしまいました。
そしてその後「一世一代のお芝居だったのに」(だったかな?)といってへたり込むふじ子さんを観た瞬間、
笑おうとしたのに、何故か泣いてしまいました。
自分でも良くわからないけど、多分あの瞬間、思いっきりふじ子さんにシンクロしてたんだと思う。

山本さんと山崎さんの刑事コンビも、初演に引き続きいい味だしてましたv
特高としての怖さよりも、惑いや切実さが感じられたかな。
一人の"人"を構成しているものの複雑さの悲哀もあったように思います。

そして、ピアニスト、小曽根真さん。
上方から降り注ぐピアノの音は、既に一人の役者さんと同じだけの質量があったように思います。
タイミングを計るためだとはおもうのだけれど、
暗闇の中にぼんやりと見える小曽根さんが役者さんを見つめる表情が、
とても優しくて、優しくて―――なんだか嬉しくなって、泣きそうになってしまいました。



「日の浦姫物語」を観た後、舞台を観て泣く、ということに僅かな引っ掛かりがありました。
昨日観た舞台でも、泣きそうになった瞬間に、
これは本当に"私の涙"なの?と自問する自分がいた。
でも、この舞台、あのパーラーのシーンから、チャップリンに扮した多喜二の姿が影になり、
そして、周りの人達によってその死と存在が語られるラストシーンまで、
私は涙を止めることができませんでした。
そんな風に自問することも忘れるくらい、その涙は純粋な勢いで零れ落ちた。
今、この涙の理由を問われたら、やっぱり私は上手くは説明できないと思う。

登場人物の感情に寄り沿ったから。
残された人たちが多喜二に向ける想いがあまりに切なかったから。
この瞬間、舞台の上に"生きる"彼らが愛しくて仕方なかったから。
どの理由も正解で、けれど、どの理由も正鵠ではないように思う。

でも、この涙は私のもの―――私だけのもの。
たとえその理由がクリアにできなくても、私の涙は溢れてくるし、そのことを恥じはしない。
もしかしたら、それが私の答えなのかもしれません。
そして、取り出された宝物は、舞台を満たした月光と私の涙の記憶を内包して、
もう一度私の中に大切に仕舞いこまれた。
そう思います。

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