両極
蜷川さんのお芝居を観始めてずいぶん経ちますが、
これまでネクストとゴールドの舞台は観たことがありませんでした。
意図的に、というよりも、日程的にご縁がないことが多くて。
今回、ちょうど大阪への出張の帰りに与野本町に寄り道して、
初めて彼らのお芝居を観てきました。
彩の国シェイクスピア・シリーズ第30弾×さいたまネクスト・シアター第6回公演
「リチャード二世」
2015.4.18 ソワレ さいたま芸術劇場 インサイド・シアター 下手2列目
出演:内田健司、佐藤蛍、葛西弘、堅山隼太、松田慎也、百元夏繪、竹田和哲、重本惠津子、堀源起、
松崎浩太郎、鈴木真之介、浦野真介、手打隆盛、白川大、小川喬也、高田誠治郎、中野富吉、
竹居正武、宇畑稔、鈴木彰紀、中西晶、銀ゲンタ、北澤雅章、たくしまけい、髙橋英希、
平山遼、髙橋清、小久保寿人、森下竜一、郷園高宏 他
というわけで、初めてのネクスト、初めてのインサイド・シアターを、
戸惑いつつも目一杯堪能してまいりました。
まず、インサイド・シアターというものがどういうものかわからず・・・
開演時間丁度に劇場についたところ、まるでライブ前のような長蛇の列!
自由席、ということなので、みなさん気合入ってるなあ、と思いながら動き出した列についていったところ、
大ホール脇の通路から導かれるまま階段を降り・・・
たどり着いた先は大ホールの舞台上!
広い広い舞台の手前の三方に客席がしつらえてあって、そのどれもが黒一色。
ちょっと経験のない雰囲気に圧倒され、且つ迷いつつも、
とりあえず前方の下手側の席の2列目を確保。
正面席の上方も、下手席の最前列も空いていたのですが・・・ちょっと弱気になりました(笑)。
でも、結果的にはいい選択だったかなあ、と思います。
先程も書きましたが、この空間は全て黒。
出入り口も上手く隠される感じになっていて、とても閉塞感の強い空間でした。
もちろん、舞台の奥は広くなっているのだけれど、それは先の見えない闇のようで・・・
なんだか、ひどく落ち着かない気持ちになりました。
そして―――
客電が落ちて出来上がった真の闇の奥から聞こえてきたのは、笑いさざめく老若男女の声。
闇の中から浮かび上がるように現れたのは、黒の紋付き袴に黒留袖のたくさんの男女。
しかも、ご老体は車いすに乗っていて、それを自分でこいでいたり、若者が押したり・・・
余りに予想外のビジュアルに一瞬呆然としてしまいました。
そして、三方の客席の前に整列するように車いすを並べた後、
若者たちに手を取られるように立ち上がり語り合う老人たち。
けれど、彼らの朗らかな笑みは、次の瞬間に一変します。
鳴り響くタンゴ。
絡み合い、解き放たれる腕。
深く交差する鋭い視線。
その表情の変化と、60人もの人たちの一糸乱れぬタンゴの迫力はもう言葉にならず・・・
息を呑んで見つめる私の腕には、いつの間にか鳥肌が立っていました。
でもって、その後、彼らが見守る中、男性二人がタンゴを踊るのですが、
それがまた、一つ一つの動きの艶やかさとは裏腹に、抜身の剣で戦っているような雰囲気で!
いやもうこれだけで凄いものを見た!と思ってしまいました。
が、もちろんこれは単なる導入でしかなくて。
再び談笑する人々の声にかぶさるように鳴り響く、高く澄んだ美しい音。
その音を合図に、舞台奥の闇から前進してきた、リチャード二世(内田健司)。
ぼさぼさの髪。
細くとがった顎。
紫に塗られた瞼。
赤いシートの電動車いすを操作するその指は、不自然なまでに反り返り―――
その、一種異様な姿は、客席を含めその場にいる人全ての言葉を失わせるだけの迫力と、
正視してはいけないような、けれど見ずにはいられないような、
そんな相反する感情を想起させる何かがありました。
物語の舞台は14世紀のイングランド。
その国を治めるリチャード二世が、いとこであるヘンリー・ボリングブルッグ(堅山隼太)に王座を追われ、
捉えられ、幽閉され、そして殺されるまでの2年間を描いた物語。
・・・なんですが、私的には王座争奪ではなく、リチャード二世争奪戦?!という感じでした。
いやもうほんとすみません。
いくら背景に暗いといっても、この感じ方は非常に申し訳なく(^^;)
でも、そんな風に感じさせてしまうくらい、内田くんのリチャード二世の在り方が凄まじかったんですよねー。
なんというか、相反するものをその身の内に内包している感じ。
さっき書いたような、異様な姿と早口で抑揚の少ない言葉に、最初はすごい違和感を感じていたんですね。
でも、物語が進む中で、ふとした瞬間にもの凄い色気というか、吸引力のようなものを感じたんです。
それは、性的な生々しいものではなくて・・・
むしろ、ボリングブルックやオーマール公(竹田和哲)との、
ラブシーンに限りなく近い印象のタンゴのシーンであってさえ、
相手の唇に触れる彼の指先は氷のように冷たいのではないかと感じた。
差し出されたから受け入れる。
求められるから与える。
奪われるから差し出す。
全てを手にしているからこそ何にも執着しない。
そんなリチャード二世の冷たい硬さは、彼に向かい合う者の中の何かを掻き立てていたたように思うのです。
プログラムによると、リチャード二世は「王の特権を濫用し浪費の限りを尽くす」王、とあります。
けれど、物語の中、彼は多くの人たちから「王の中の王」として称えられる。
そして、真っ白な袴に銀色の甲冑をつけて、階段の上から見下ろす彼の姿は、
下帯一つの華奢な姿で、床に描かれた大きな光の十字架に磔刑のように横たわる彼の姿は、
確かに至高の存在としての何かがあった。
なんて言えばいいのかな。
たぶん、リチャード二世の中には、相反する両極のものが同時に存在していたのかな、と思う。
醜悪さと美しさ。
完璧と堕落。
冷たさと熱。
透明と汚濁。
正義と悪徳。
強さと脆さ。
そして―――聖性と魔性。
彼から王冠を奪うために進軍してきたボリングブルックが、
白く輝くようなリチャード二世を見上げる横顔の真剣なまなざし。
奪い取った王座に座りながら、目の前に立つ彼の背に、
吸い寄せられるように立ち上がり手を伸ばすボリングブルック。
彼という存在が自分の居る世界から消えることを祈りながら、
実際にその死を目の前にすると、それを受け入れることを拒否するようなボリングブルック。
そして、最後のボリングブルックの手に落ちるまで彼に付き従い、
投降しようとする彼の足に縋って涙し、
その後も彼の解放を願いながらも、自らの命のために彼を裏切ったオーマール公。
新しい王の呟きを受けて、リチャード二世の命を奪いながら、
血に染まり倒れ伏したその体を押し戴き、王の偉大さを称えるエクストン(小久保寿人)。
目の前にいない時には、その存在を否定することができても、
いざ手の届くところにあるときには、その存在に手を伸ばさずには入れらない。
そんな男たちの姿を見ていて、
魔性というのは、本人の意図しないところで他者の欲望を掻き立てて狂わせるからこそ、魔性といい、
聖性というのは、手の届かないところにあるからこそ、その手の中に引きずりおろしたくなるもので、
その二つは両極で且つ表裏一体なのかな、なんて思ってしまったのでした。
リチャード二世のいなくなった王宮で、
リチャード二世と同じようにボリングブルックはオーマール公の唇に触れ、二人はタンゴを踊り始めます。
一番最初の戦いのようなタンゴとも、各々がリチャード二世と踊った官能的なタンゴとも違い、
その二人のタンゴには、どこか追い立てられるような焦燥感がありました。
それは、たぶん二人の間には、リチャード二世の存在が、
彼を失ってもなお生々しく刻み込まれているから―――
そう思ったら、互いに縋りつくように踊る彼らの姿が、なんだかとても哀しいものに見えてしまいました。
(そして、この二人がそれぞれヘンリー六世とリチャード三世の先祖だと思うと、
それはそれで非常に萌え興味深くv)
うーん、ちょっとあのリチャード二世の在り方は、うまく言葉にできないなー。
でも、あのリチャード二世だったからこそ、このお芝居は成り立ったのかな、とも思う。
というか、この演目をネクストでやったのはすごい良かったなあ、と思います。
重厚なベテランが演じるのではなく、
どこか発展途上で、どこか歪みがあって、若さゆえの勢いや浅はかさや美しさや未完成さがある。
そんな彼らだからこそ、この閉ざされた空間の中に綺麗で醜悪な世界を創りだせたのかな、と思う。
リチャード二世の妻イザベル(佐藤蛍)が夫に向ける、幼ささえ感じさせるような一途な信頼と恋情、
ヘンリー・パーシー(白川大)が迸らせるリチャード二世への憎しみとボリングブルックへの心酔も、
その初々しさと危うさに目を引かれました。
役名を全部把握はできなかったけれど、リチャード二世の廷臣たちの、
それぞれの在り方もどこか切実さがあって良かったです。
もちろん、ゴールドのみなさんの味のある存在感も楽しませていただきました。
留袖の着こなしは、やっぱり年の功だなあ、と思ったり、
やっぱり女性陣は強いなあ、と思ったり(笑)。
イザベルの侍女のみなさまの、妃に向ける一生懸命さにはほろりと来たし、
庭師のみなさんの飄々としたやりとりや、
幽閉されたリチャード二世を抱きしめる厩舎番(森下竜一)の手の優しさと、
彼に縋りつくリチャード二世の子供のような姿にちょっとうるっときましたし、
やっぱり名前を把握できなかったのですが、リチャード失脚をたくらむ三爺(笑)の、
好々爺な感じの空恐ろしさにぞっとしたりしました。
で、車いすに乗ってるご老体の中で、ヨーク公(松田慎也)とノーザンバラント伯爵(手打隆盛)の声が、
朗々として張りがあるし、ヨーク公って剣道でもやってそうなかくしゃくとしたおじいさまだなあ、と思って、
幕間に配役表を確認したら、ゴールドじゃなくてネクストのメンバーでした!(笑)
二幕でちょっと注目してみたら、顔は老人だったけど(特殊メイク?!)、手は若者でした(笑)。
ラストシーンは、最初と同じように笑いさざめく人たちのシーンでした。
車いすが、何の象徴なのか私にはきっときちんとは理解できていないと思います。
印象的なシーンも多々あったので、できればもう1回くらい観たかったかなあ。
でも、1回きりのご縁だったからこそ、こんなにも鮮烈な印象が残ったのかもしれません。
とりあえず、これからはネクストの舞台もちゃんと観に行こうと思います。
これまでネクストとゴールドの舞台は観たことがありませんでした。
意図的に、というよりも、日程的にご縁がないことが多くて。
今回、ちょうど大阪への出張の帰りに与野本町に寄り道して、
初めて彼らのお芝居を観てきました。
彩の国シェイクスピア・シリーズ第30弾×さいたまネクスト・シアター第6回公演
「リチャード二世」
2015.4.18 ソワレ さいたま芸術劇場 インサイド・シアター 下手2列目
出演:内田健司、佐藤蛍、葛西弘、堅山隼太、松田慎也、百元夏繪、竹田和哲、重本惠津子、堀源起、
松崎浩太郎、鈴木真之介、浦野真介、手打隆盛、白川大、小川喬也、高田誠治郎、中野富吉、
竹居正武、宇畑稔、鈴木彰紀、中西晶、銀ゲンタ、北澤雅章、たくしまけい、髙橋英希、
平山遼、髙橋清、小久保寿人、森下竜一、郷園高宏 他
というわけで、初めてのネクスト、初めてのインサイド・シアターを、
戸惑いつつも目一杯堪能してまいりました。
まず、インサイド・シアターというものがどういうものかわからず・・・
開演時間丁度に劇場についたところ、まるでライブ前のような長蛇の列!
自由席、ということなので、みなさん気合入ってるなあ、と思いながら動き出した列についていったところ、
大ホール脇の通路から導かれるまま階段を降り・・・
たどり着いた先は大ホールの舞台上!
広い広い舞台の手前の三方に客席がしつらえてあって、そのどれもが黒一色。
ちょっと経験のない雰囲気に圧倒され、且つ迷いつつも、
とりあえず前方の下手側の席の2列目を確保。
正面席の上方も、下手席の最前列も空いていたのですが・・・ちょっと弱気になりました(笑)。
でも、結果的にはいい選択だったかなあ、と思います。
先程も書きましたが、この空間は全て黒。
出入り口も上手く隠される感じになっていて、とても閉塞感の強い空間でした。
もちろん、舞台の奥は広くなっているのだけれど、それは先の見えない闇のようで・・・
なんだか、ひどく落ち着かない気持ちになりました。
そして―――
客電が落ちて出来上がった真の闇の奥から聞こえてきたのは、笑いさざめく老若男女の声。
闇の中から浮かび上がるように現れたのは、黒の紋付き袴に黒留袖のたくさんの男女。
しかも、ご老体は車いすに乗っていて、それを自分でこいでいたり、若者が押したり・・・
余りに予想外のビジュアルに一瞬呆然としてしまいました。
そして、三方の客席の前に整列するように車いすを並べた後、
若者たちに手を取られるように立ち上がり語り合う老人たち。
けれど、彼らの朗らかな笑みは、次の瞬間に一変します。
鳴り響くタンゴ。
絡み合い、解き放たれる腕。
深く交差する鋭い視線。
その表情の変化と、60人もの人たちの一糸乱れぬタンゴの迫力はもう言葉にならず・・・
息を呑んで見つめる私の腕には、いつの間にか鳥肌が立っていました。
でもって、その後、彼らが見守る中、男性二人がタンゴを踊るのですが、
それがまた、一つ一つの動きの艶やかさとは裏腹に、抜身の剣で戦っているような雰囲気で!
いやもうこれだけで凄いものを見た!と思ってしまいました。
が、もちろんこれは単なる導入でしかなくて。
再び談笑する人々の声にかぶさるように鳴り響く、高く澄んだ美しい音。
その音を合図に、舞台奥の闇から前進してきた、リチャード二世(内田健司)。
ぼさぼさの髪。
細くとがった顎。
紫に塗られた瞼。
赤いシートの電動車いすを操作するその指は、不自然なまでに反り返り―――
その、一種異様な姿は、客席を含めその場にいる人全ての言葉を失わせるだけの迫力と、
正視してはいけないような、けれど見ずにはいられないような、
そんな相反する感情を想起させる何かがありました。
物語の舞台は14世紀のイングランド。
その国を治めるリチャード二世が、いとこであるヘンリー・ボリングブルッグ(堅山隼太)に王座を追われ、
捉えられ、幽閉され、そして殺されるまでの2年間を描いた物語。
・・・なんですが、私的には王座争奪ではなく、リチャード二世争奪戦?!という感じでした。
いやもうほんとすみません。
いくら背景に暗いといっても、この感じ方は非常に申し訳なく(^^;)
でも、そんな風に感じさせてしまうくらい、内田くんのリチャード二世の在り方が凄まじかったんですよねー。
なんというか、相反するものをその身の内に内包している感じ。
さっき書いたような、異様な姿と早口で抑揚の少ない言葉に、最初はすごい違和感を感じていたんですね。
でも、物語が進む中で、ふとした瞬間にもの凄い色気というか、吸引力のようなものを感じたんです。
それは、性的な生々しいものではなくて・・・
むしろ、ボリングブルックやオーマール公(竹田和哲)との、
ラブシーンに限りなく近い印象のタンゴのシーンであってさえ、
相手の唇に触れる彼の指先は氷のように冷たいのではないかと感じた。
差し出されたから受け入れる。
求められるから与える。
奪われるから差し出す。
全てを手にしているからこそ何にも執着しない。
そんなリチャード二世の冷たい硬さは、彼に向かい合う者の中の何かを掻き立てていたたように思うのです。
プログラムによると、リチャード二世は「王の特権を濫用し浪費の限りを尽くす」王、とあります。
けれど、物語の中、彼は多くの人たちから「王の中の王」として称えられる。
そして、真っ白な袴に銀色の甲冑をつけて、階段の上から見下ろす彼の姿は、
下帯一つの華奢な姿で、床に描かれた大きな光の十字架に磔刑のように横たわる彼の姿は、
確かに至高の存在としての何かがあった。
なんて言えばいいのかな。
たぶん、リチャード二世の中には、相反する両極のものが同時に存在していたのかな、と思う。
醜悪さと美しさ。
完璧と堕落。
冷たさと熱。
透明と汚濁。
正義と悪徳。
強さと脆さ。
そして―――聖性と魔性。
彼から王冠を奪うために進軍してきたボリングブルックが、
白く輝くようなリチャード二世を見上げる横顔の真剣なまなざし。
奪い取った王座に座りながら、目の前に立つ彼の背に、
吸い寄せられるように立ち上がり手を伸ばすボリングブルック。
彼という存在が自分の居る世界から消えることを祈りながら、
実際にその死を目の前にすると、それを受け入れることを拒否するようなボリングブルック。
そして、最後のボリングブルックの手に落ちるまで彼に付き従い、
投降しようとする彼の足に縋って涙し、
その後も彼の解放を願いながらも、自らの命のために彼を裏切ったオーマール公。
新しい王の呟きを受けて、リチャード二世の命を奪いながら、
血に染まり倒れ伏したその体を押し戴き、王の偉大さを称えるエクストン(小久保寿人)。
目の前にいない時には、その存在を否定することができても、
いざ手の届くところにあるときには、その存在に手を伸ばさずには入れらない。
そんな男たちの姿を見ていて、
魔性というのは、本人の意図しないところで他者の欲望を掻き立てて狂わせるからこそ、魔性といい、
聖性というのは、手の届かないところにあるからこそ、その手の中に引きずりおろしたくなるもので、
その二つは両極で且つ表裏一体なのかな、なんて思ってしまったのでした。
リチャード二世のいなくなった王宮で、
リチャード二世と同じようにボリングブルックはオーマール公の唇に触れ、二人はタンゴを踊り始めます。
一番最初の戦いのようなタンゴとも、各々がリチャード二世と踊った官能的なタンゴとも違い、
その二人のタンゴには、どこか追い立てられるような焦燥感がありました。
それは、たぶん二人の間には、リチャード二世の存在が、
彼を失ってもなお生々しく刻み込まれているから―――
そう思ったら、互いに縋りつくように踊る彼らの姿が、なんだかとても哀しいものに見えてしまいました。
(そして、この二人がそれぞれヘンリー六世とリチャード三世の先祖だと思うと、
それはそれで非常に
うーん、ちょっとあのリチャード二世の在り方は、うまく言葉にできないなー。
でも、あのリチャード二世だったからこそ、このお芝居は成り立ったのかな、とも思う。
というか、この演目をネクストでやったのはすごい良かったなあ、と思います。
重厚なベテランが演じるのではなく、
どこか発展途上で、どこか歪みがあって、若さゆえの勢いや浅はかさや美しさや未完成さがある。
そんな彼らだからこそ、この閉ざされた空間の中に綺麗で醜悪な世界を創りだせたのかな、と思う。
リチャード二世の妻イザベル(佐藤蛍)が夫に向ける、幼ささえ感じさせるような一途な信頼と恋情、
ヘンリー・パーシー(白川大)が迸らせるリチャード二世への憎しみとボリングブルックへの心酔も、
その初々しさと危うさに目を引かれました。
役名を全部把握はできなかったけれど、リチャード二世の廷臣たちの、
それぞれの在り方もどこか切実さがあって良かったです。
もちろん、ゴールドのみなさんの味のある存在感も楽しませていただきました。
留袖の着こなしは、やっぱり年の功だなあ、と思ったり、
やっぱり女性陣は強いなあ、と思ったり(笑)。
イザベルの侍女のみなさまの、妃に向ける一生懸命さにはほろりと来たし、
庭師のみなさんの飄々としたやりとりや、
幽閉されたリチャード二世を抱きしめる厩舎番(森下竜一)の手の優しさと、
彼に縋りつくリチャード二世の子供のような姿にちょっとうるっときましたし、
やっぱり名前を把握できなかったのですが、リチャード失脚をたくらむ三爺(笑)の、
好々爺な感じの空恐ろしさにぞっとしたりしました。
で、車いすに乗ってるご老体の中で、ヨーク公(松田慎也)とノーザンバラント伯爵(手打隆盛)の声が、
朗々として張りがあるし、ヨーク公って剣道でもやってそうなかくしゃくとしたおじいさまだなあ、と思って、
幕間に配役表を確認したら、ゴールドじゃなくてネクストのメンバーでした!(笑)
二幕でちょっと注目してみたら、顔は老人だったけど(特殊メイク?!)、手は若者でした(笑)。
ラストシーンは、最初と同じように笑いさざめく人たちのシーンでした。
車いすが、何の象徴なのか私にはきっときちんとは理解できていないと思います。
印象的なシーンも多々あったので、できればもう1回くらい観たかったかなあ。
でも、1回きりのご縁だったからこそ、こんなにも鮮烈な印象が残ったのかもしれません。
とりあえず、これからはネクストの舞台もちゃんと観に行こうと思います。
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