天秤の上に在るもの

女神が持つ天秤の上。
そこに在るのは、一体誰の“正義”なんだろう。


「TERROR テロ」

2018.1.27 マチネ 紀伊国屋サザンシアター 1列10番台

作:フェルディナント・フォン・シーラッハ
演出:森新太郎
出演:橋爪功、今井朋彦、松下洸平、前田亜季、堀部圭亮、原田大輔、神野三鈴


物語の舞台はドイツの法廷。
被告人は、若き軍人コッホ少佐(松下洸平)。
彼は旅客機を撃墜し、乗客164人を殺害した罪に問われていました。
問題は、その旅客機がハイジャックされ、7万人が集うスタジアムに墜落させられようとしていたこと。
その撃墜が、正式な命令のもとに行われたものではないこと。
ドイツでは航空安全法―――テロに対し、国防大臣の判断の下、武力行使を容認する―――が制定され、
しかし、その法律は施行の1年後に連邦憲法裁判所で無効とされていました。
事件から7ヶ月が経ったこの日、その判決が下されようとしていました。
憲法にのっとって、彼の罪を告発する検察官(神野三鈴)。
現在の世界情勢の中で、彼の行為は正当であるとする弁護人(橋爪功)。
そして、二人の証人。
当時、国家航空安全指揮・命令センターで国防省と連絡を取り合っていた、
空軍将校ラウターバッハ中佐(堀部圭亮)。
旅客機の乗客として夫を亡くしたフランツィスカ・マイザー(前田亜季)。
裁判長(今井朋彦)の采配の下、全ての告発が、弁護が、被告人発言が、証言が、
論告が、最終弁論が滞りなく行われ、評決が参審員―――観客に委ねられます。
果たして、コッホ少佐は有罪なのか、無罪なのか。

というお芝居でした。
入場すると渡されたのが、一枚の赤い小さな紙。
その紙を投票することで、この日の裁判の評決が下される、観客参加型のお芝居なわけです。
そういうお芝居だ、ということは事前に知っていたし、
他国に比べて日本は有罪の判決が多い、ということも知っていました。
でも、裁判の中身はまったく知らないままで、このお芝居に臨んだのですが・・・

黒一色の舞台セットは、まったく逃げ場のない閉鎖された空間を創り出し、
証人の二人以外黒と白の衣裳に身を包んだキャストたちは、
登場した瞬間からそれぞれの形での臨戦態勢で空気をきりりと張りつめさせ―――
最初の裁判長の穏やかで、柔らかで、けれど逃げることを許さない厳しさが、
一観客である私を否応なく参審員の席に座らせました。
あとはもう、彼らの言葉を一言も漏らさずに聞き取り、
その言葉の中に在るはずの“正義”を見つけ出すために、
ただひたすら感覚の全てを舞台に向けることしかできませんでした。
もちろん普段から、観劇の時には少しでも沢山のものを受け取れるように、と思っています。
でも、このお芝居では、それはただ受け止めるだけでは許されなかった。
受け止めて、吟味して、疑って、咀嚼して、答えを見つけだすために、
普段の観劇とは違う頭の―――心の部分をフル稼働していたような気がします。

164人の命と7万人の命。
テロの脅威にさらされた現代。
憲法と超法規的緊急避難。
守るべきものと、守られるべきもの。
私的な感情と公的な感情。

女神の天秤に乗せられたそれらは、それぞれの重さで天秤を揺らし続けました。
その過程は、本当にスリリングで、興味深くて―――でも、とんでもなくきつかった。

私は、命の―――生きていく命と、失われて命の間近にいる仕事をしています。
その中で“倫理”という言葉は常に私に付きまといます。
絶対的な答えはないのだと。
考える人の数だけ答えはあるのだと。
考え続ける過程が大事なのだと。
いろんな人がそう言います。
けれど。
同じ人たちが、自分の中に確固たる答えを持つことを求めてくる。
それが、私には辛くて仕方がありません。
このお芝居でも言及された「トロッコ問題」が職場の勉強会で取り上げられた時も、
私はどちらも選ぶことができませんでした。
その時選べなかったことの罰であるかのように、
同じ問いが、リアルな状況を伴って私に判断を迫る―――

もちろん、これはお芝居というエンターテイメントなわけで、
評決(投票)だってしたくなければしなくても良かったのかもしれません。
でも、役者さんたちの言葉の持つ重みに、役者さんたちが見せる“彼ら”のリアルを前に、
逃げ出すことなんて全然思いつかなかった。
それに、1幕が終わった時点で、私の答えは決まっていたように思います。

2幕、検察官の論告を聞いているときに、なぜか一粒の涙が零れました。
自分のその涙の意味を、私はちゃんと説明することはできません。
自分のなかでどうにも整理のつかない混乱の表れだったのか。
心情としてコッホ少佐に寄り添う部分がありながら、
憲法という原則を外れることのできない自分自身に対する痛みだったのか。
それとも、検察官も自分と同じ痛みを耐えていると感じた安堵だったのか。
そう。
私は、コッホ少佐を有罪と判断しました。
でも、そう判断しながらも、一瞬でこの判断を覆すような何かが、
弁護人の最終弁論の中に隠れているのではないかと、期待する自分もいた。
けれど、弁護人の最終弁論は、私の気持ちを更に有罪に傾かせるだけでした。
彼の言っていることは理解できる。
理解できるけど、なぜか彼の言葉には違和感しかなかった。
語るべきものの根底がすり替えられている―――そんな、違和感。
だから、評決の時、私は迷わず有罪の箱に投票しました。

そして判決―――有罪223、無罪203。

この判決を聴いた瞬間の、あの絶望に近い感情は何だったんだろう。
コッホ少佐は有罪だと、そう私の理性は判断をした。
でも、もしかしたらその理性を誰かに壊されることを、私は望んでいたのかもしれない。
そんな風に思いました。


東京公演では、無罪と有罪は半々だったそうです。
他国では無罪が圧倒的に多くて、こんなに有罪が多いのは日本だけなんだとか。
実際にはかなり僅差の判決だったので、有罪とするのが日本人的だとは言えないと思います。
でも、やっぱり国民性とかはあるんだろうなあ。
今週あった臓器移植の勉強会での諸々を聞きながら、この舞台のことを思い出してしまいました。

そんなこんなで、ちょっといつもとは違うスタンスでの観劇で、非常に疲れたのですが、
でも、とても有意義な時間を過ごせたように思います。
もう1回観たら、もしかしたら無罪を選ぶかもしれないなあ、なんて思ってもみたり。
そのくらい、舞台上の役者さんの役としての生命力は凄かったように思います。
そんな役者さんの感想も少しずつ。

弁護人役、橋爪功さん。
めっちゃ胡散臭かったです!(笑)
遅刻してきたり、法衣を着忘れてたりと、しょっぱなからスタンドプレー。
その後も、法廷の中の空気の流れを乱すようなシーンもあったり、
基本張りつめて無表情な舞台の上で、無言で多彩な表情を見せていたりと、トリックスター的な部分もあり。
でも、そういう行動の全てが計算の上に成り立ってるような底知れなさがあったように思います。
このビーグラーという弁護人の語る言葉は、本当に彼の真意なのかな、とも感じることも。
そういう風に感じちゃったから、彼の言葉は私の中には届かなかったのかもしれないなあ。

真意なのか、という点については、神野三鈴さん演じる検察官もそう。
冷静沈着。
滑らかで説得力のある弁舌
全てを語りつくすのではなく、参審員に判断を委ねながら、けれど自分の主張は明確に伝える。
圧倒されるくらい完璧なスーパー検察官!という感じでした。
でもその一方で、なんというか、ここにいる彼女は公的な彼女なんだな、と思った。
それは当然のことなのだけれど、自分は法を守る者である、という理性が、
彼女の言葉の本質であって、彼女自身の真意―――あるいは感情は違うのかもしれない、と思いました。
そういう感覚は、判決を聞いた瞬間の彼女の表情でさらに強くなったように思います。
あの瞬間、彼女の表情には喜びの欠片もなかった気がするの。
これは、私の思い込みだと思うのだけど、彼女も私と同じ“絶望”を感じていたのではないかな。
自分の主張を、法という原則を、打ち破る何かを彼女は待っていたんじゃないかな。
「検察官」という役職名ではなく、ネルゾンという一人の女性としての彼女の真意が、
弁護人とはまた違った意味で気になりました。

コッホ少佐役、松下洸平くん。
舞台で拝見するのはかなり久々かなあ。
なんというか、非の打ち所のない優秀な軍人で、
今回の“事件”についても、彼はもの凄く考えて、論議して、葛藤して、
その上で“自分の答え”をきちんと出していたんだと思う。
私が逃げ出した「トロッコ問題」に、きちんと答えを出していて、それに彼は従った。
でも、旅客機に乗っていた人たちの命を、ただ164という“数”として扱ったのではなかったと、
その一人一人に家族があり、人生があるのだということを彼はちゃんとわかっていて、
その上で公的な、軍人としての自分の判断を優先したのだと、そう思ったのは、
やっぱりあの検察官の最後の質問―――「この飛行機に、あなたの妻と子供が乗っていたら?」に対する、
彼の答えを聞いたからかな。
「イエスと答えても、ノーと答えても嘘になる」
この言葉が、私に彼を一人の人間として認識させたのだと思います。
判決の瞬間、思わず彼の顔に視線を移しました。
でも、彼の表情に明確な揺らぎは見いだせなかった。
彼の表情が揺らいだのは、この質問の時と、
そしてフランツィスカ・マイザーの証言の時の僅かな瞬間だったように思います。
まあ、ずっと彼を見ていたわけではないので、わかりませんが(^^;)
うーん、あと1回観れたなら、コッホ少佐だけ観ていたかったかも。

フランツィスカ・マイザー役は前田亜季さん。
この方、本当に観るたびに素晴らしい役者さんになっていくなあ・・・!
席の位置的に、フランツィスカの正面だったので、1幕では結構彼女の表情を見ていたのですが、
舞台の上で唯一鮮やかな色の衣裳を着ているのに、
なんだか彼女の回りだけ温度が低いように思いました。
感情の全てを抑えたかのような無表情な彼女の中で、どれだけの感情が渦巻いているのか。
証言台に座った彼女の足がカタカタと震え続けて、
でも、そんなことに気づいてもいないかのように、裁判官の問いに答えていく彼女。
看護師であるというフランツィスカは、多分自分の感情をコントロールすることに長けていて。
でも、それは感情がないということでは決してない。
荒れ狂う哀しみを、拭うことのできない疑念を、押し寄せてくる後悔を、湧きあがる怒りを、
けれど彼女は最大限の努力で抑え込んでいた。
ただ、その足の震えが、零れ落ちる大粒の涙が、
彼女が抑え込んできた感情の片鱗を見せつけてくるようで・・・
なんだか、舞台の上に駆けあがって、抱きしめたくなりました。
抱きしめて、ただ子どもみたいに泣かせてあげたくなった。
証言の後彼女は二度と舞台には戻ってこなかったけれど、
彼女はあの判決をどこかで聞いていたんだろうか。
でも、きっとどちらの判決が出たとしても、
彼女の持つ疑問は―――彼女の夫たち乗客は、コックピットに突入で来ていたのか、
テロリストを制圧で来ていたのか、という疑問の答えにはならなくて。
彼女の“救い”はどこにあるのだろう、と思いました。

ラウターバッハ中佐役、堀部圭亮さん。
証人として、旅客機がハイジャックされてから撃墜されるまでを説明するわけなのですが、
整然とした説明の中に、中佐自身の焦燥とか、衝撃とか、迷いとか、希望とか、
そういうものが見え隠れしているのが凄いなあ、と思いました。
彼はあくまで軍人で。
軍人の立場で判断し、行動する。
でも、それはもしかしたら組織の一部として動くことある意味思考放棄にもつながるのかな?
検察官の容赦ない質問の中で、彼の中に確固たるものとして存在した何かが、
ふっと揺らぐ様子にラウターバッハという一人の男の顔が見えたような気がしました。

原田大輔さんは廷吏役。
椅子やテーブル、飲み物などを用意したり、開廷や休廷を告げたりと、
出番そのものは多くないのですが、なんだか不思議な存在感でした。
彼が出てくると、すっと背筋が伸びるような、これから始まる時間に思わず身構えちゃうような。
廷吏がいることで、余計に参審員としてここにいる、という感覚が強くなったような気がします。

裁判長役、今井朋彦さん。
実はこの日、結構疲れた状態の観劇で。
台詞劇だし最前列で寝ちゃうとまずいなあ、と思って、せめてもと始まるまで目を閉じてたんですね。
(結果的には眠くなる瞬間なんてなかったんですが(^^;))
で、ふっと誰かの気配を感じて目を開けたら、目の前に今井さんが!(通路脇席でした)
・・・めっちゃかっこよかったです!
というか、2幕の検察官の時もそうだったのですが、あの距離で役者さんの声を聞くと、
その迫力というか存在感に圧倒されますね。
さっきも書きましたが、今井さんの裁判長はとても穏やかな語り口で。
でも、同時に逃げ出すことを許さない厳しさがあったように思います。
その厳しさは、参審員だけではなく、舞台上の人々にも同じように向けられていて、
評決を下すために必要な情報の全てを詳らかにする手腕と、
けれど決して強制も誘導もしないフラットな立ち位置に、
まさに裁判長!という気持ちになりました。
あの空間で、裁判長という存在が、一つの揺るがない楔だったのだな、と思います。
とはいえ、裁判長の判決の根拠を私は全て納得することはできませんでした。
判決が、自分が選んだものであるにも関わらず!
それは、私が判決の衝撃から立ち直っていなくて、
きちんと裁判長の言葉を受け止められる状態になかったからなのかもしれません。
でも、無実の時に、裁判長がどんなお話をするのか、とても気になりました。


というわけで、戯曲、買っちゃいました(笑)。
今、最初の数ページだけ読んでいるのですが、見事に今井さんの声で脳内再生されています。
戯曲では、あの空間の体感的な密度は再現できないかもしれないけれど、
きっと読み進めると、他の役も今回の役者さんの声で再現されるんだろうなあ。
それを楽しみつつ、もう一度自分の選択を見つめなおしてみようと思います。


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